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2008年4月 9日 (水)

奉仕の道を歩むまで 8

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1度目の光の方が現れてくれたのは僕と由紀子さんをAが別れさせる
計画を実行しようとしていたAに対しての警告だと後から判りました

由紀子さんはとても長くAにわからないように苦しめられた事を光の
方々により後から知らされて判りました・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
         奉仕の道を歩むまで 8


3度目の光の方が現れてくださった後に 私は由紀子さんとの思い出
の場所の中の1つで ソビエト船とソビエト人を始めてみた晴海埠頭
にバイクで行きました すると なんと!その時もロシア船が停泊して
いました 昔に由紀子さんと見たときは船から出てきたソビエトの人た
ちは2列に行列して無言で静かに歩いて街の方の見学に出ていました
 まるで何かの捕虜みたいなふいんきでした 私はその時もアメリカ人
だと思っていたのですが 2列に静かに無表情で歩く外人たちが普通
じゃないと感じ 船の煙突のマークを見たらアルファベットが逆のもあり
どこの国だろう?って由紀子さんに聞いたら「ソビエトかも・・・・」といい
表情が硬くなりました 私と由紀子さんをソビエトの2列の行列の人た
ちはチラッと見るのですが すぐに前を向きなおして まるで先生に見
つかると怒られるような感じでした 僕は好奇心が出てきて船に近づこ
うとして由紀子さんも誘おうと思い振り返ったらいませんでした 由紀子
さんは倉庫の方まで下がってて
船から離れていました 「ねー行って見ようよ」 と言うと 「わたし
やだ・・・怖いから・・・」と言って座り込んでいました 僕と由紀子さんは
いつも人のいない気分のいい場所を探して行ってたので回りには僕た
ちと表情の硬い会話がまったくないソビエトの人たちだけだったので 
僕もなんか怖くなっちゃって船に近づけませんでした

そんな思い出にふけりたいと行ったらロシア船が止まっていました

むかし(20才ころ)とちがいロシアの人たちは笑っていたり雑談したり
服装もむかしはとても地味で同じような服装だったのにジーパンや
明るい色の僕たちとあまり変わらない服の人も少しいましたが それ
でも少しむかし見たふいんきは残っていました 作業をしていて船に
中古の車やバイクを積んでいました 日本人の人がいたので聞いて
みると車は5万円バイクは5千円くらいで売っているそうでした 僕の
バイクにロシアの人が恐る恐る近づいてきて見ていました
「モーキック! モーキック!」と判らない言葉を言ってきました
たぶんバイクの事だろうと思い私は笑顔でゼスチャーで答えました 
かれらは英語の単語 イエスやノー サンキュウも判りませんでした
わたしはゼスチャーだけで船に乗りたいと伝えて乗る事ができました
船の中は異国のふいんきで一杯でした トイレや通路 壁に書かれた
文字や ペンキの色や質までもが日本と違って見えました 彼らは
日本人がめずらしくいろんな部屋を案内してくれて そのたびに僕を
紹介していました 何人も行列が出来て船の中を見て歩きました 
ゼスチャーでドリンクを飲もうと誘われて 女性の船室で飲む事に
なりました その部屋の女性2人は20歳前半の若くてかわいい女性
でした 2人ともとても喜んでくれて 部屋を2つに仕切る手作りの
カーテンを引くとラジカセで英語じゃないロックをかけ出して2人は
いっちょうらのドレスに踊りながら着替えていました 男性の方が
カーテンの間から覗こうと言うしぐさをしたり それを女性達が怒る
しぐさをしたりと 和気あいあいのふいんきです 木の古い小学校
で使っていたような感じの小さな机にグラスが並べられました 
どれもちぐはぐで かけているものがほとんどでした 中国のや 
どこかの国の拾ってきたような ばらばらでほとんどかけているグラ
スが並べられて1本のとても古そうな 紙のラベルが茶色がかってい
て破れてるビンが持ち込まれた時 着替えた女性達は歓喜の声を
あげて喜んで音楽のリズムに合わせていました 男性達も楽しそう
でした 僕も楽しくなっちゃって言葉がわからない分 ずーっと笑った
り笑顔で接しました 彼らも日本人は初めてで僕もロシア人が初め
てなので互いに好奇心に満たされ続けていました ビンはウォッカ
みたいで 彼らから飲み方を教えてもらいました 息を吸ってから
一気に飲み込み 「フッーーーー!!」と息を吐き出します つまみ
はありませんでした
が 扉の回りや船室の外まで僕を見ようとたくさんの人が来ていま
した すると太った キッチンで仕事をしている女性が食べるものを
調達してくる(盗んでくるみたいなゼスチャーで)と言いました 
すると部屋のみんなは大喜びで声を上げました 英語じゃない早い
ロックとウォッカとみんなのパッションとで僕もエキサイトしていました
ふいんきは家族や親戚といる感じでした 素朴で気心はガラス張り
のようです 疲れを知らない子どものように僕もなっていました

太った女性が持ってきたのは赤ちゃんの握りこぶしくらいの小さな
ハンバーグ3つだけが乗ったお皿でした・・・・・ それをみんなで分け
て喜びながら食べました 

わたしは彼らが食料や物資がとても不足していることが判りました
彼らの着ているものや履いているものはとても古く部屋はとても質素
でした わたしのタバコやライター ボールペンまで珍しそうに見てい
たのでプレゼントしました とても喜んでくれたのでバッグにあるもの
のほとんどをプレゼントしました かけたコップやグラスを見て家にある
ものをプレゼントすることにしました 翌日に母の家にある不要なお皿
やコップ フォークやナイフ おたまや調理器具 ノートやボールペン
文具類や音楽テープなど あらゆる物を持ってバイクでまた行きました

 船の入り口にいた公安警察の方は顔パスで入れてくれました
 それらをみんなにプレゼントしました みんな喜んでくれました

船は2日後にロシアに戻るので それまでにもっといろいろなものを
あげようと思いました かれらがほしいものは大体判ったので翌日
勤めていたバイク便会社QQ便で給料を前借していろいろなものを
買いました ドライバーセットやライターのガス オイル 文具類や
調理道具 女性の化粧品は高かったのでライダーの女性たちにも
協力してもらいました 母も使わない化粧道具も提供してくれました
他のライダーも何かを持ち合わせて翌日の出航までに来てくれる
ことになりました みんないいやつばかりです!

     それらをもって船に行き お別れパーティをしました

日本のビールやお酒 つまみや食べ物もたくさん持っていきました
みんなでわいわい楽しんでいるうちに夜になり 最初に僕のバイクを
見て「モーキック!」と言って近づいてきたスラブと言う男性が自分の
子供にバイクをプレゼントしたいと何回も言っていたので僕は日本に
いて働けばまたバイクは買えると思い決意してプレゼントすることにし
ました ナンバーをはずす前に走り納めをしようと船の前の港を走りま
した 走っているうちにパトカーが赤灯とサイレンをならして近づいて来
た時に Aの声が突然飛び込んできました「チャーリー逃げるのよ!」
私は何か逆らえない何かの力があって 港の外に出てしまいました
すると待ち構えていたかのようにパトカーが数台待機していて一斉に
赤灯とサイレンを鳴らして走ってきました Aはとにかく逃げろと言い
私は警官の方々に事情を説明しようと思ったのですが出来なくされま
した 晴海埠頭は銀座方面か豊洲方面の2つの道しかなく橋を渡らな
ければ都内に戻れません どの橋のたもとにもパトカーが2台位ずつ
いました ぐるぐる逃げるうちに 勝どき橋のパトカーが振り切れました

パトカーは何台も僕を追ってきましたが僕は幡ヶ谷1-1の自分のアパ
ートに戻っていました そしてAにこれからどうすればいいのかと聞きま
したが返事はありませんでした 僕の中に入っていないと思いAの家に
電話をしましたが出ませんでした 僕は大変なことになってしまった!
と怖くなりました 船にいる仲間たちのことも心配になりました
2時間ほどして仲間の1人が部屋に来ました 彼は私に警察に出頭
したほうがいいと言い 警察は2日間だけ待ってくれる事になっている
がそれ以降は逮捕状を取ることになると言われました 警察は私達を
何かの密輸に関係しているのではないかと張り込んでいたとの事でし
た パトカーは20台以上出動していたこともわかりました 私は彼に
「ある女性(A)にあって相談するから」と言いました そして翌日の夜
Aに呼び出されて西大井のほうのAの部屋に行きました そしてAは
「私が何とかしてあげるから明日出頭しなさい 私を信じて・・・・でも
まさか逃げ切れるとは思わなかった・・・・予定が狂った・・・・」と言い
僕を帰らせました 翌日QQ便のライダー数名も付き合ってくれて港湾
警察に出頭した僕は取調室で警官の方に事情を説明しました すると
何もかも知っていると言う感じで怒ったりはしなく とても事務的に始末
書のようなものが出来上がりそれにサインをするようにと言われました
サインをすると警官の方はロシア大使館の方が取調べをここですると
いい出て行きました 取調室に入ってきた大使館の方は日本語が上
手で僕に何しに船に乗ったかやプレゼントしたものは何かなどを聞きま
した 私は最後に歯ブラシの本数が何本か忘れたので10本くらいだ
ったかな?と言うと大使館の人は手帳を見て15本デスネと言いました

そして「イシイサンハ ショウジキニハナシテクレマシタ ワタシハワガ
ロシアノタメニ アナタノシタコンカイノコトニ オレイヲイイマス アリガト
ウゴザイマス アナタハコンゴ コノヨウナカツドウヲ ツヅケマスカ?」

と言われたので なんかこのまま免許を取り上げられたり法律で裁か
れたり怒られたりしないじゃないかな?と感じて うれしくなり さらに
自分のしたことは良い事だったんだと判り 「はい!続けたいです!」
と元気よく言いました すると 「モシツヅケルノナラバ 高輪ニアル
ロシア通商代表部ノ ビクトリー・フジューニン トイウ タントウカンニ
ゼヒアッテクダサイ カレガチカラニナッテクレマスカラ」と言われました

そして話が終わると警官の方から その夜に築地警察と月島警察も
パトカーを緊急配備して3つの警察から23台のパトカーが僕を追って
いたとの事を聞かされました そしてそのまま帰らしてくれました

わたしは心から反省をしました そして2度とこのようなことが無い様に
しますと 誓ったのでした 

その後言われたようにロシア通商代表部に行きました そして担当官
のフジューニンさんに会いロシアの現状や人々の生活状態などを聞き
ました 飢えと寒さで凍死する子供たちや老人の方々 物不足など・・
私は当時燃えないごみの日に出されるまだ新品とも思える電気器具や
家具 調理器具や道具 文具や衣類などさまざまなものを調べ研究
したことがあり それらがただ廃棄されるのではなくて何かに役立てな
いか?を考えていました 銭湯に行っても まだ残っているシャンプー
や石鹸も 行きつけの銭湯のおばさんの協力を得て集めて取って置い
てくれたもので再生の実験などもしました どのような形でロシアの為
に貢献できるか?を考えていました Aはロシアの件は非協力的で話
しすらもするなと言いました この頃からAはひんぱんに私を呼び出し
たりして 今は判るのですが暗示を強めてロシアの活動が出来ない
ように妨害していました 
   
   それはAが計画していたある事の妨げになるからです

       しかしある日 不思議なことが続きました 

わたしは早朝の甲州街道で [ けんせつちょう ] と ひらがなで
書かれたトラックが 放置しているバイクを撤去しているのを見ました
そのバイクはどこに行くのだろう?と思い建設庁に聞こうと考えました
104で電話番号を調べて国道管理1課のイワムロさんに行き着き 
撤去後の放置バイクのことを聞きました すると 建設庁が管理する
国道に放置してあるバイクは警告書をバイクに取り付けた後に期間が
過ぎたものは都内4つの出張所にバイクは集められて撤去した後
6ヶ月過ぎても連絡の無いバイクは処分する事が判りました その
処分方法は決まっていない事が判りました 事情を説明してそれら
のバイクをロシア船で運んで寄付・経済協力をしたいと言うとスムー
ズにまるで誰かにお膳立てされているかのように話がまとまりました
無料で手に入る事になったバイクの事をフジューニンさんに話しました
常に撤去されるバイクの期限が切れて処分されるバイクはコンスタント
に都内4つの出張所に集められていて そこから直接ロシアに送れて
金額に加算すれば膨大な金額がコンスタントに入ってきますと話すと
喜んでくれました 計画もウラジオストック港に整備工場も設けたり等
とんとん拍子に進みました そしてフジューニンさんからはロシア政府
から私にロシアの現状を視察する目的も含めて 飛行機代やホテル
などの滞在費すべて持つ正式な招待状を送られることになったと知ら
されパスポート番号をロシア領事館に知らせてくださいと言われました

私はうれしくなり母も喜んでくれました 母は当時Aによる強い暗示で
苦しめられていたにもかかわらず この活動の唯一の協力者でした
その後フジューニンさんが任期を終えて帰国するときに母は自分は
もう着ないからと言い 大切にしまっていた着物や帯などをフジュー
ニンさんにプレゼントしました  帰国されたフジューニンさんからは
ロシアから電話でパスポート番号を領事館に知らせてくださいと何度
も連絡がありました・・・・ 

しかしフジューニンさんが帰国後 次の担当官マースル・ニコフさんを
紹介された後 Aは 「もうロシアとは手を切りなさい!」と怒りました
そして 暗示を強めてフジューニンさんから何度も連絡があったのに
すぐに忘れさせるなどの妨害を続けて さらには住んでいたアパート
や母のアパートと弟のアパートまで暗示によって引越しさせて鳩ヶ谷
市桜町のAが手配した借家に住まわせてフジューニンさんとの連絡
を取れないようにまでしました その家にはあちこちにカメラが仕掛け
られていて 外の壁から真新しい黒いケーブルが隣の家の窓へ
引き込まれていました 私がそれを発見するとAはそのことをすぐに
忘れさせました それほどの強い暗示状態だったことがわかります
母も弟も箕輪君も同じでした・・・・ わたしはAにとって状況が悪くなる
と何度も暗示で動かされて引越しをさせられました そして外の壁や
部屋などでその黒い真新しいケーブルを発見して たどっていくと隣
の家の窓にケーブルは引き込まれていましたがすぐにAにより忘れ
させられていました・・・・この頃電話をかけると いつも同じ声の男の
人か女の人が出て 必ず少なくても1回はその人のところに間違い
電話になっていました 104番の番号案内にかけてもその女性が
いつも必ず出ました 公衆電話だと1度目の104番はすぐにかけると
普通の番号案内の女性ですが 2度目以降はそのいつもの女性が
出ました 母の家でも弟の家でも同じ女性が出ました Aは「国の
新しい監視システムにチャーリーに協力してもらってる・・・・」と1度
だけ言った事がありましたが すぐにそのことを忘れさせました

ロシアへの活動はAにとっては長年私の家族までも暗示状態にした
のに もしこれで私になんらかの形で人や組織などの援助や助けが
出来てしまうとAの計画が駄目になってしまうからでした そのために
警察を動かしパトカーを配備させたり Aの一声で私は何の罪にもな
らなず帰してもらったり 意のままにAは警察をも動かせたのです
そのような事が何度もあり警察の記録に残っているはずです

後からみんなが不思議がっていました それは普通だったら警察は
あの晩にも私のアパートに来れたのに行かなかった事や2日の猶予
を与えるなどの事 とても簡単な事情聴収でサインをして終わった事
など どれもみんなは不思議がっていました その後彼らとはAにより
会えなくされてしまいました 私はAの部屋に半年以上も通わせられ
たりして 体重が57キロ(普段は約100キロ)にまで減るほど暗示
状態で判らないように監禁状態にされていたのです・・・・ 

そのような形でAは 光の方々による まるで良い状況が作られるか
のような まるで誰かにお膳立てされていて物事がスムーズに運ば
れていくかのような良い方向への明らかな光の方々の誘導を Aは
過去にすべて壊し続けました

今は判りますが 光の方々はAの計画を知っているので それを止め
させようと そして私を助けようとしての意味も含めて 良い行い[奉仕
活動を私が行なえば] いつでも助けてくださり状況を良い方向に誘導
してくださっていました Aはそれが光の方々・神さま側の力によるも
のと知っていて壊し続けました

それはどれも [飢餓や貧困で苦しむ子供達を助ける活動] でした 

そのような事を 父に手伝ってもらい 額に入れて飾った山の写真を
見た時に受けた光の方々のインスピレーションの後に思い出しました

空白の4年間 Aによりまったく自由を奪われていた私に光の方々は
2000年の春以降もこのような方法・形で誘導してくださったり状況を
作って下さいました 

仕事が出来るようになった私は免許証の書き換えに行きました
そこでバス停に吊るされていた[生命の光]と言う本を手に取りました
ぱらぱらとめくり読みしてからバッグにしまいました   その後
誘導されるように今のバイク便会社に入りました 仕事である日の夜
聖路加タワーで待機することになり川側の外のテラスの椅子に座って
以前の[生命の光]を読みました するとある箇所のところで目が止ま
りました [それからすべてが良くなりだした] の所で なぜなのか?
顔を上に向けました すると4度目の時と同じバスケットボール位の
白色の発光球体がちょうど見上げた位置でオフィスタワーの中間の
高さの所にぴたりと静止していて私が目で確認した事が判ると東の
方へ前回と同じように真直ぐに早いスピードで飛んでいきました
私は驚きもせずにそのまま顔を下に向けたら薄明かりで読みにくい
本の[それからすべてが良くなりだした]の書かれてある所で目が
止まり読み返させられたように読んだのです 4度目と今回もA以外
に証人はいませんが私は [そのとうり] と言う意味だと思います
 その時に思った事が [そのとうり] と教えてくださったのです

        [それからすべてが良くなりだした]

わたしは生命の光の[幕屋]の方々と出会い長年傷ついていた私は
とてもやさしく癒されたのでした そしてどこにも見ない霊天上界への
熱い思いを持つすばらしい方々の役に立ちたいと心に決めたのでした
 幕屋でも光の方々のシンクロニシティという形の助けは続きました

その頃私は自分の体験とAの事を書いた手紙を20ヶ所のUFOなど
の研究団体に送りました それはAの暗示状態から抜け出れました
が とても執念深いAはいつでも私たち家族に能力で妨害できること
から守られたいという助けを求める手紙でした どこからも連絡はなく
私も忘れていました 数週間後バイク便の仕事で練馬で配達が終わ
り 配車からの指示で中落合~飯田橋移動メールが来て走りました 
私はなぜなのか?山手通りを右折してしまい19才ころから走っていた
写真の配達の会社[昭和天然色]の前を通りすぎてすぐのところで
バイクを止めました 右の建物のガラス戸を見ると(財)日本心霊科学
協会と書かれていて そこは空白の4年間の前 由紀子さんのQ2の
機器を光の方に知らされてからAによるとても強い妨害が続いていた
約3ヶ月間の間に その時もなぜなのか?ここに立ち止まらされて見
た所で その時に私は「ここに助けを求めれば助けられる」と強く思い
ドアを入ろうとした時にAに「そこに入ったらとても恐ろしい事になる!」
と言われたり思わされたりしてぎりぎりのところで入れなかった所でし
た私はここになにか?意味が?・・・と思いましたが仕事中だったので
飯田橋まで走りました すると途中で携帯電話が鳴りましたが走行中
だったので信号待ちで見てみると知らない所の電話番号が入っていま
した 私は飯田橋のいつもバイクを止める場所(後からそこがハンガー
・フリー・ワールドのビルだった事が判りました)で その電話番号に
かけてみました  「はい 日本心霊科学協会です」 と出ました! 
私は驚き さっきの心霊協会だ!と本当に驚きました それは私の
電話番号も判らないのになぜ?電話があったのだろう?という驚き
もありました 

NO9へ→http://141.txt-nifty.com/141/2008/04/post_0516.html

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    飢餓を終わらせよう! 私が作ったビデオです↓
http://au.youtube.com/watch?v=_mEBps8jcgQ&feature=related
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